―ぽんぽこ仮面は絶望した。
必ず、かの神算鬼謀で英俊豪傑な爺さんたちをぎゃふんといわせねばならぬと決意していた。ぽんぽこ仮面は、ゲートボールが下手くそであり、卓球も言わずもがなである。爺さんたちはというと、ゲートボールにおける達眼の士であり、卓球の猛者である。私はというと、お花さんたちに水をよこせと怒鳴られ、飼い猫に遊ばれる日々を送ってきた。もはや、飼われているのはぽんぽこ仮面とも言えよう。
4月の常会でのことであった。体育委員があろうことか、とんでもない言葉を放った。
「えー、今年は旧久野小学校の取り壊し作業があるため、小学校敷地内には入ることができなくなります。よって、体育系のイベントは全て中止。残念ですが、来年度またみんなで楽しみましょう。以上。」
ぽんぽこ仮面は絶望した。これまで一生懸命特訓に励んだ。壁打ちもちょっとだけ続くようになった。優勝トロフィーを恥ずかしそうに受け取るイメージトレーニングも怠らなかった。我が師からは「まだ、ラケットが上に反っていますね。下を向けたまま振り抜くんですよ。」といつまで経っても同じ指摘を受け、ラケットを上に向けると足が固まる。一歩進んでは三歩下がる、素晴らしい成長っぷりを見せているところであった。爺さんたちに見てほしかった。見せられない悔しさに涙はこれっぽちも出なかった。薄情な奴である。
空虚な日々を送る中、選挙の投票のためにぽんぽこ仮面は旧久野小学校を訪れた。そこで旧久野小学校の姿を改めて目にしたとき、形容のしがたい気持ちにもわもわと包まれた。人のおらぬ暗い小学校の校舎、埃のかぶった廊下、ありがとう久野学園の文字。間もなく取り壊しが始まるのである。ぽんぽこ仮面はこの校舎に生徒がいたころを知らぬ。しかしながら、いち住民として物寂しいものはあるものだ。これが日本の地域が直面している実態。久野歴わずか1年半のぽんぽこ仮面ですら寂しい気持ちになるのだ。きっと、ここで生まれ育った爺さんや婆さんたちのそれはと考えると、筆舌に尽くしがたい。
ここがなくなる、故に卓球大会がない。そんな自分のちっぽけな野望のために、久野で送る素晴らしい毎日のことを空虚などと書いてしまい、恥ずかしい気持ちでいっぱいである。前言撤回。ぽんぽこ仮面は、ひどく赤面した。
小学校がなくなろうとも、卓球大会がなかろうとも、私のできることでこの地をモリモリと元気にしよう。卓球の壁打ちのように小さなことをコツコツと。ゆっくりゆっくり走ろう。それならきっと私にもできようとも。爺さんたちとラケットを交えるのは、また来年の楽しみに取っておくとしよう。
【ライター紹介】
ぽんぽこ仮面。京都府与謝野町出身、9年間東京で過ごした後に雲南市へ。
お風呂すき。サウナすき。キャンプすき。
毎日わくわくした大人でいたい教育業界の人。