幼いころ、私の近くにはもったいないオバケがいました。
もったいないオバケはどこからともなく「もったいない!」と言葉を飛ばしてきて、私たちを驚かせるのです。
「お米が茶碗に残ってる!もったいない!」
「ミカンの白いところ、栄養があるのに!もったいない!」
「まだ使えるがね!もったいない!」
もったいないオバケに見つかることが恐くて、幼い私は一生懸命にコソコソと隠れたりもしました。
それでもどこで見ているのか、必ずもったいないオバケはやってきます。
こわい、こわい。
もったいないオバケは、私が大人になった今でも油断するとすぐやってきます。
「この蒸籠(セイロ)も、ずいぶん昔のもんだわね。でもねぇ、もったいないけん大事に使うわね。そげしたけん、今でもこげやって頑張って、お前の好きな赤飯が作っちゃれるわ。」
じゃあ、もったいないオバケはずいぶん昔からいたのか…。
なんて思いながら、赤飯の完成を今か今かと待ちわびる私。
この赤飯はもったいないオバケにしか作れません。
もったいないオバケはもったいないオバケであると同時に、とってもマメ。
小さな手間も、「手を抜いたらもったいない。手を抜くとすぐ何でも中途半端になる。うまいもんも作れん。」
と痛くてなかなか上がらない手を一生懸命に上げながら、蒸籠の蓋を開けてマメに赤飯の様子を見て、混ぜたり火加減を調節します。
せかせかとマメに動いてる姿は、圧倒的に元気な姿。
本人は、「体が痛ていけんわぁ。」「もう動けん。」と、言ってるけど圧倒的元気。
だって、去年の稲刈りの時も
「穂から落ちた籾米ももったいないけん、拾え。茶碗一杯くらいにはなる。」
「なんでも雑に扱うな。藁も、よその家が貰って牛の餌にしてごしたり、編んで来年の稲刈りの時に使うけん。」
…無駄がない。隙も無い。
でも、大人になってからはあんまり怖くありません。
むしろ、自分ももったいないオバケの仲間になりたいなと思うようにもなってきました。
この赤飯は、もったいないと大切に扱ってきた蒸籠と、丁寧に仕上げるための長年の腕と経験がないと作れないもの。
炊きあがった赤飯は、あざやかな小豆の薄紅色に、つやのあるもち米。
立ち込める湯気からは、もち米のほんのり甘い香りと蒸籠の木のいい香りがして、家の中に広がります。
まさにここでしか食べられないもの。
いつかは来る“物”の寿命も、少し手を加えてあげることで、次の活躍のステージを作ってあげることができます。
食べ物で普段捨ててしまう部分も工夫することで、そこにしかない栄養を美味しく無駄なく体に取り入れることもできます。
本当は赤飯だって、炊飯器で簡単に作ることができます。
でも「赤飯が好きなお前(私のこと)がおるのに、炊飯器で作った赤飯を食わすのはもったいない。せっかくだけんうまい赤飯を食わせてやらないけん。」という、優しいもったいないがあることで、「嬉しい」や「美味しい」といった素敵な気持ちにさせてくれます。
そういったもったいないという気持ちの中には、丁寧な暮らしへのヒントが転がっているのかなと思います。
赤飯は一度にたくさん炊いてきれいな容器に入れて、いつかの時にととっておいたお菓子の包装紙で丁寧に包んで、ご近所さんにも配られます。
そうすると、持って行った先で「あんたんところの赤飯はうまいけん、嬉しいわぁ」と喜んでもらえて、なんだか自分の事のように誇らしい気持ちになります。
ちなみにこの赤飯は、私のソウルフードです。
ご近所さんから、赤飯を持ってきてくれたお礼にと、大きな大根と白菜を頂きました。
「まげに(沢山)できたけど、ウチは人数が少なて食ってごすもんがおらんでもったいないけん、持って帰ぇだわ。」
ここにも、もったいないオバケがおったわ…(笑)。
【ライター紹介】
ちかちん。生まれも育ちも雲南市。おしゃべりが大好きで、出雲弁で弾丸でトークをします。
食にたずさわる仕事をしており、特に美味しいスイーツを日々研究しています。